ここ数年、父と医療介護の話になると、だいたい口論となってしまう。
原因はお互いに主張を引かないことであるのだが、一種のコミュニケーションのようなものだと思っているので、不快ではない。
ただ、なぜこんなにお互い分かり合えないのかな?と考えることはある。
父は介護関係の事務職。現場も見ている。
私は医療・介護の事務職。家に入ったりしてた時期もあり、今は相談業務系の場所にいる。
お互いある程度知識はあるし現状もわかっているのだが、なぜか口論になる。
何故なのかと考えて、少し自分のなかで結論というか納得のいく答えが出たのでメモ代わりに書いておこうと思う。
まず、現状の医療現場に対して父は不満が強い。
しかし言い方のせいなのだろうが、父の不満は「現在の制度が悪い」=「医師が悪い」に聞こえてくる。
そう言っているつもりはないのだろうが、制度にかこつけて医師の文句を言っているように聞こえるのだ。
そうすると、めちゃくちゃブラックだろうが、患者のために頑張っている医師たちを侮辱しているように聞こえて私は反発してしまう。
制度が悪い、その中で理想のために動けない医師が悪い…そういわれるとどうしようもない。
医師は医師で現制度のなかで一生懸命働いている。たまに金のためだ云々とかいう批判をみる。実際そういう医師だっているだろうが、大半の医師はひたすら業務をこなしている。
しかしどうにも昔の考えというか、父の意見の中には「患者を助ける、生を助けるということは金云々じゃない」と言ってるように私には取れてしまうのだ。
そうなると、何言ってんだ?金に一切ならない仕事なんて、医師があの生活の中に組み込んだら死んでしまうぞ???と私は思うのだ。
なんというか、精神論?私からすると現状の働く現場と合わない…おそらくどうしても昔の「聖職者」が父の脳内からはなくならないのだろうと思う。
私はそりゃ無理な話だし、仕事のなかで、現制度の中でどうやっていくかが大事であり(もちろん政治のほうから制度が変わっていくのも大切だ)、理想論だけ口にされても…と思っているのでどうしてもかみ合わないのだ。
書いてて思った…そうだ。「聖職者」なのだろう。だからこそ、わかってはいるけれど、どこかしら生の絡む現場でお金の話と医師の生活の話が加わるのが、父からすると「おかしな話」になるような気がした。
こう考えるようになったのは先日話していた中で父が「自宅で死ぬという、ささやかな願いが叶えられない現状がおかしい」とこぼしたからだ。
ささやかな願い!?!?
そう、父にとってはささやかな願いなのだ。
だが私からすると「なんて贅沢な願いなの!?」としか思えない。
完全にどこに重点をおいているのかで価値観が全く違うのだ。
そりゃ口論になるよなあ…と思う。
父がこの願いをささやかだ、と思うのは勝手なのだが、そこに付随してくる介護の問題を担う私たちにそれがささやかではない、というのはおそらく理解されないのだろうな。
家で死にたい、それはわかる。それが本人にとってささやかな願いだ、というのもわかる。
が、それは実際に行う場合はまったくささやかではない。勿論父だってその重さはわかっているのだ。わかったうえで「ささやかな願いだ」と表現する父との、こういう感性というか価値観はおそらく理解しあえないのだろうな…としみじみ思った。