楽して生きたい

既婚腐女子の日々徒然

アンソロ騒動みてて思うこと

twitter.com

 

twitter.com

 

この方の意見が一番ちかい。

何に驚いたって、二次同人の問題で消費者センターが発想に出てくることが恐ろしい。

詐欺かもしれないから個人的に弁護士相談ならまだわかる。個人のやりとりだから。

 

でもね 消費者!?

二次アンソロを手にとった人が自分を消費者・購入者だと思っているというのが何より怖い。

主催の責任、と声高々に言ってる皆様、では手に取った方の責任はどうされるんですか?同人誌というのは頒布されたものを印刷費と交換に手にするものですよ?

印刷費を手渡したのはほかならぬ貴方です。

トレパクしてたなんて知らなかった?主催も知らなかったですよね?それとも主催は出されたものすべてトレパクがあるのか確認しなければならない義務があるとでも??

二次同人は手に取った瞬間、印刷費を手渡した貴方にもその冊子に対する責任の生じるものですよ?なんでそれがわからないの??

だからこそ、返金というのはあくまで主催の善意です。本来ならば「こういう理由で今後は頒布できません。お手にとった方は個人で破棄してください」で済む話です。

それ以上を主催に求めてどうする。

一度返金すると言ったこと、返金された人がいるので、されていない人へ不公平が生じていること、それについての不満はわかります。

 

でもないわー。消費者センターとかありえないわー。

 

twitter.com

 

どうしていいかわからない、じゃない。

自分の判断で破棄して。そしてトレパクした作家が今後出てきたら注意喚起すればいい。それですむ話じゃないの?

主催への責任追及ができるのは、公式だけですよ?つまりこの方たちは公式に出てきてほしいのかな??

主催が悪手を打ったのもわかる、もともと問題の多いところだった、そこへこの問題だってのも知っている。

ただ個人として思うのは、個人の判断で動けないなら同人誌を手に取らないで。

公的機関に頼らないといけないなら、まずグレーの分野に手を出さないで欲しい。

SNSにおける肯定感

よくSNSの愚痴をこぼしている管理人ですが、SNSは見ていて本当にひやひやすることが多くて困ります。


今はもうSNSに中高生がいるのは当たり前です。
当たり前なのが怖いなぁと感じるアラフォー世代です。
最近あらたにもやもやしてることが増えました。
ただしこれは私が歳をとったからだ、というのを理解したうえで書きます。


色んな方が愚痴をSNSにこぼします。
それは良いことだと思うのです、発散する場所は誰にでもあった方がよいも思うし。
ただ、愚痴の書き方みてると心配。

ある程度年齢のいったかたは、愚痴ってスッキリ!って感じなのですがお若い方のを読むと

「私が悪いわけじゃないよね?!そうだと言って!肯定して!!」

が強い!

基本的にフォロワーというのは本人に好意的な人が多いのでみんな優しい。
そのままのあなたでいいよ、と言ってくれます、だって自分には迷惑かからないもの。
でも、それはネットだからである、とどれだけの人がちゃんとわかってるんだろう。

「仕事でミスをしたから、落ち込む、慰めて欲しい」までは理解しますが、「私だけがこんなミスをするわけじゃない!」と主張されても「しらんがな」と思うし、「それをそうだね、貴方は悪くないよ」と肯定してる人をみると、なんかもやっとする。
だって、ミスはミスだもの。
それで迷惑を現実にこうむっている人がいて、それを責められるのは当然のことです。
それで金をもらっているのだから。

最近自分の職場にも「これは発達障害では?」と思ってしまう方がいます。
うっかりミスのうっかり範囲が、どうにもおかしく、ずれている。
もちろん人間ですので、ミスするのは仕方ない。ただし改善してもらわなければ仕事をするうえで非常に困る。
こちらも言い方を変えたり、マニュアルを増やしたり色々と努力はしているのですが、最終的にはこちらが確認しないと危ないミスが多すぎるのでめちゃくちゃ手間がかかる。
しかし本人は悪気はない。頑張っているのもわかる。しかしそのミスの分は誰かがフォローしているし、その分他人の時間を食いつぶしている、という自覚は持ってほしい。

職場の子が入っていらい、私なりに発達障害の勉強したり、やり方を模索してみたりしてみたが、正直割に合わない。
だってこれで同じだけの給料ですよ、やってらんねー!!!


とまあ、仕事のは仕方ないんですよ…
ただ趣味で楽しくやりたい趣味のSNSでこれらの愚痴を聞くのがしんどい。
あともう親の世代ゆえに、親の庇護下にある子が親の文句言ってるのみるのもしんどい。

「毒になる親」というのが実際に居るのは理解している。
けれどそれを盾に親だからと言ってなんでも言っていいわけではない。

「貴方(親)の言葉で私(娘)はこれだけ傷ついた!!」と訴えるフォロワーさんを見るたび
じゃあ、あなたは親を一切傷つけていないのか?と言いたくなる。
親は子が何を言っても傷つかないとでも思っているのか?
そのくせに実家に住んでるのとかみると「なぜでない?距離をとらない?」と思ってしまう…


昔はね、もう少し娘に共感することもできたんだけどさあ。
この年齢になると、子を育てるのにどれだけの時間と金を親が費やしているのかを知ってしまうからね。
軽々しく親のせいで云々というのをみるのがしんどくなってきた…



でも結局SNSのつながりって基本は本人に好意的な人が集まるわけだから「そうだよね、辛いよね」「親がひどいよね」という人が多い。
でもそれをネットで得ても、本人の現状は何も変わらない。
肯定されているという自分だけが肥大していくように感じる。


みていてもやもやするし、怖いなあと思う。

夫婦間の趣味のお話

 

ico-iiwake.hatenablog.com

 

オタクな腐女子の夫もちとしては気になってしまったこの記事。

周囲の大半は夫がひどい、モラハラ・DVだというものでしたね。

ただなあ…これすっごく難しい問題というか、腐とかオタクとかそういうものではないと個人的には思いました。

 

 

 

補足その2 以前話し合いをしたことについて - ico_iiwakeのブログ

埋め込みが上手くいかないのでタイトルはめ込みで失礼。

 

補足として書かれておりましたけれど、私たちが行っている二次創作、特に男性同士の恋愛を主とした創作。

この趣味に生理的な嫌悪感を持つ人がいるんだってことです。 

趣味に貴賤はない、言いたいことはわかります。

でも「生理的に無理」ってあるじゃないですか。

趣味に限らず、いろんなところで。これが好きな人がいるのもわかっているけれど、自分はどうしても好きになれない、視界にも入れたくない。そういうものが存在します。普通なら「視界に入れない」ことでやり過ごします、大人だもん。

 

このブログの夫にとって、それは妻の趣味だったんじゃないかなと思いました。

本人も書いてあったように「最初は容認」していたとあるので、夫だって理解しようと思っていた時期があったんです。

そこで上手くやれなかったのは、夫婦間の問題であって、それはオタクだとか腐だとか関係はないと思います。

視界に入れないで上手くやる、ということができなかったのは妻に非もあるんじゃないかなあと個人的には思います。ただ双子の育児しながらそんなことできないじゃろってのもわかってます。

でも自分がどうしても嫌なもの、嫌悪感を持つものを辞めてくれない妻に対して、愛情がどれだけ長続きするのか…とも思うのですよね。

 

「妻の趣味を認めないのはモラハラだ」言いたいことはわかります。

ですが、「どうしてもそれをしている姿を見たくない」という夫の訴えを無視するのはモラハラに当たらないのでしょうか?

 

ブログを読むと夫の言い方が高圧的であり、完全に上からの物言いですのでモラハラ・DVという単語が出てくるのはわかります。

ですが、夫が下から「お願いだから辞めてほしい」と言っていたら?その時彼女は辞めたのでしょうか?話し合いをきちんともてたのでしょうか?

 

私を含め、夫婦のことは夫婦にしかわかりません。夫が「お願い」という形を取れば妻ももっと気持ちよく辞めれたのかもしれません。もしくは「でも趣味だから」と夫の訴えを無視したかもしれません。無意味な仮定ではありますが。

 

例えばですけど、どんなに小遣いの範囲で行ったとしても、夫がパチンコや麻雀などのギャンブルで息抜きをした場合。

趣味だから、時間も守っているし、借金してるわけじゃないし…でもその時間は確実に妻と子供は見ない、その時間をこころよく許せる妻はどれだけいるのでしょうか。

節度を守って小遣い範囲で週に1時間…それでも嫌だ、だってギャンブルじゃないかと思う人は多いのではないでしょうか?

ツイッターを見てる時間とパチンコの1時間は違う、ツイッターは子供を見ながらでもできるけど、他はそうじゃない、反論は色々出てくると思います。

でも、夫の唯一の趣味・息抜きを許せない という一点では同じことです。

 

ブログ主の夫がそのほかの趣味を一切認めない、妻の自由な時間を認めない、というのなら話は別ですが(もし読み落としていたらすみません)、「オタク趣味を辞めてほしい、もう少し他の趣味で息抜きをして欲しい」という主張ならオタクを取るか夫を取るかを選ばないといけないと思います。

そしてブログ主は夫を取った、という話なのではないのかなあ…

 

 私たちは感覚がマヒしていますが、ごく一般的な家庭において、飛翔系のキャラを用いた、男性同士の恋愛を描く趣味、というのはやはり異質です。

それに対して、拒否感を抱く人がいるのは当たり前です。だれにでもわかってもらえる趣味ではありません。

 

最近コミケなどがテレビで流されたり、色んな趣味の方を許容しようという流れがあるのはわかります。ですが「生理的嫌悪感」というのは距離を取る以外、どうしようもない感情です。そして夫婦というのは他人で一番近くにいる存在です。

 

相手が嫌だとわかっていても自分の趣味を息抜きとして押し通すのかというのは、オタク趣味だとか腐だとかは関係ないのです。

特にこの方は産後に…とありましたので、もともと夫はこういう趣味を持つ妻と結婚したわけじゃないんですよね。

腐女子だとわかっただけで離婚したいという人も存在する趣味なんですよ。

 

それを忘れちゃいけないなあと思いました。

まとまらないけれど、片方の言い分のみでモラハラだDVだってあまりにも意見が偏りすぎてたのでね。(あの言い方がモラハラだってのは同感なんですけどね)

固定とリバのお話?その2

rakusiteikitai.hatenablog.com

前にもちょろっと書いたことがあったので、とりあえず貼っておきます。

さてまたSNSで炎上しておりましたね

 

togetter.com

これです。

いやー凄い内容だった。

私は雑食好きのリバも大好きマンだけど、結局この人が何を言いたいのかさっぱり理解できなかったし、これは別にリバと固定問題じゃなくね?っとなりました。

 

私はどちらかというとリバ大好きマンなので一番最初の疑問はわかるんですよ。

 

「機能としてついているものを使いたくなることはないのだろうか」

「気持ちよさそうな相手をみて、自分もそちらを味わいたいと思うことはないのだろうか?」

「これだけ気持ちのよいことを、相手にもしてあげたいと思ったりしないのだろうか」

 

キャラが上記のように思うんじゃないか、というところからだいたいリバに走るんですけどね、これ、固定の友達と話してた結論なんですが、固定の人はまず上記のようにキャラが考える、という段階ですでにキャラ解釈が違うから無理なんですよ。

 

逆に固定の人は

「相手を愛して、気持ちよく抱いてあげる、気持ちよくしてあげたい」と思う攻めとか

「相手を愛してるから抱かれたい」と思う受け

固定なわけです。

もちろん上記の書き方は一例ですよ!

固定の人が思う攻め・受けの考え方、それだってもちろんアリなんです。だって二次創作なんだもの。

 

だからまず「キャラがそう考える発想がお互いにない」ということをお互い理解しよう…というか、固定の人は大半が理解しているんです。だからこそ、リバや逆カプとは理解しあえない、と近寄らないのです。

でもね、リバの人は固定の人の考えるキャラ像もわかるんですよね(多分)

だから自分のもわかってもらえるんじゃないか、わからない理由がない、と思ってるんじゃないか、と今回の騒動で色んなところの意見を読んだ私の感想です。

 

でもわかって、固定の人はそれを聞かれても「わからないから近寄らないで」としか返事はしないって。

 

がんばって言語化したんですけど、上記のキャラ解釈の違いって、殆ど無意識下で行ってるんですよね。

だから改めて聞かれると「ん?」となるし、何度も「ねえなんで?」と聞かれると「うるせー!好きなものは好きだし嫌いなものは嫌いなんじゃ、それでいかんのか!」ってなるのです。

 

今回の発端の疑問も、私は疑問に思うことは理解できるけれど、まずそこを疑問に思うこと自体が固定の人からすれば疑問になるんだということをリバの人は理解したほうがいいと思う。

って書いてるけれど、大半のリバ民は理解しているんですよね。だから棲み分けをするのだし、固定の作品を見たいときはROM垢作ってそこから見たりする人だっているのです。

 

こういう騒動は固定とかリバとか主語を大きくするからおかしくなるので、結局は「私」の主観でしかないんですよね。

 

上記のまとめ主、リバ者かと聞かれるとちょっとなんか読んでて私は首をかしげるんだけど…まあ、まとめ主の「固定から迫害されるリバ民」の構図に持っていきたい感じのあれが私はだめだったし、ブロックされることを迫害と受け取るなら、ツイッター止めた方がいいよって思いました(朝消されていたけど)

 

イベント申込み時にね、リバスペースを作ってほしい、というのはわかります。でもそれはツイッターで周囲に同意を求めても仕方ない。

イベント主催に訴え続けて、できればリバ仲間にも同じように意見を送るのをお願いしていくことしかでいないと思うんですよ。

もしくは同じイベントに出るときリバの皆で隣接スペースで出そう?と呼びかけるだけでいいと思うんですよね…

たださあ、リバといってもABAとCBCが隣り合って大丈夫なの?そういうのは考えて言ってるのかな?

そこは許容できない、とかではダメだと思うのですよ。

リバのスペースを作るということは、自分がABAもしくはBABで出した場合、隣がCBCとかDBDとかCACとかそういう可能性だっていっぱいあるんです。そこんとこわかってるのかなあと個人的には思います。

 

といっても、私10年以上雑食リバ民公言して生きてるけど、固定から攻撃されたり嫌な思いさせられたことってないんですよね。

まあ、地雷踏んだって絵茶から逃げられたあげくにツイッターで文句言われたことあるけど、何でもOKの絵茶に入って文句いった固定民があれは悪いと思ってるのでカウントしません。

だからこそよく聞く「リバ民は迫害されている」というのがまず実感としてないんですよ。

もちろん私の知らないところで理不尽に固定の人に苛められたって人もいるかもだけど、それって結局リバとか固定とかじゃなくて、個々で変なヤツに絡まれて苛められた、だと思うんですよね。

固定だろうが雑食だろうがリバだろうが、母数が増えてくればそれだけ変な人に絡まれる率は高くなるわけですから。

 

あ、あとこの前回ってきたのがすごくわかりやすかったので貼っておきます。

web-ace.jp

 

これ。後半のほうに出てくる、固定の女の子が雑食の友達のツイッターはブロックしてる理由…

多分ねえ、これ、多いと思うんです。

リバ・雑食って自分に許容範囲がでかいせいもあって、カプ名をミュートして自衛している、って知らない人が多いんですよ。

ちゃんと毎回カプ名入れてくれれば、そのカプ名をミュートすることで自衛できるのに、それがないとその人ごとブロックするしかないんです。

まあ、ミュートも人のいいねですり抜けてきたりあまり仕事してくれないことも多いけど…

 

でもね、固定は心が狭いとか、自衛しろっていうなら自衛手段を奪ったらだめだと思うのです。

 

地雷あるならツイッター使うな、描いてくれるだけでありがたいんだから絵師に文句言うな、とか言う人もたまにいるけれど、そんなん知ったこっちゃないですよ。

誰だって使う権利があるんです。本人に突撃して人格攻撃さえしなければ、意見として「カプ名を入れてほしい」と伝えるのもアリだし、それを聞いて「嫌だ」と言うのもアリだし、それで本人をブロックするのもアリです。だってそういうツールだもの。

 

今回のまとめ主さんがブロックされていると迫害されてる気がするがするので、とマシュマロで答えてたと思うのですが(消されてて確認できない)、それみた段階で分かり合うことも棲み分けもこの人には無理だなあと思いました。

この人は結局固定の人に話し合いを持ちかけたわけじゃなく「私を論破してみろ!できないでしょ!?」って戦争しかけただけ(本人の言葉にあったから使ってるよ)なんだな、と…

リバ民・雑食民としては火種だけ残して逃亡されるという悲しいことになりました。

 

私はリバも雑食も固定の友達がいます。

ありがたいことに迫害された、と感じたことはありません。幸せなことだと思います。

でもやっぱりお互いに幸せになる方法は模索すべきだ、とも思うので、次のイベントはリバ本確定だから、まず同じジャンルでリバ本出すってわかる人いたら、隣接スペースを持ちかけてみようかな、と思いました。

死ぬということ

ドン引きされるのがわかっているので、あまり口に出すことはないのだけど、日々楽しく生きているけれど、私の希望は寝たまま目を覚まさないことである。

 

小学生のころからなので、どうしようもないのだけれど私は「生きていくのが面倒くさい」人間なのだ。

しかし理性もある。死を選んだとき両親や夫は悲しむだろう。私自身「死にたい」わけではないのだ、ただ生きるのが「面倒くさい」だけなのだ。

高校時代にちょっとこれを漏らしたらドン引きされたので、まあ、そうだよなあとそれから口に出すことはあまりしないのだけど、これってどうすりゃいいんだろう。

 

たまに思うのだ。これは健全な精神とは言えないのでは?と。

しかしじゃあ実生活において支障があるか、というと特別あるわけでもない。

特別生きづらいと感じていることもないし、死にたくてたまらないから、自死を繰り返しているわけでもない。だってそれすら面倒なのだ。

 

ただ時々SNSなどで「常に死を考えている」というのはおかしい、みたいな意見を見ると「やはりおかしいのか?一般的にまっとうな精神状態の人は死を考えることはないのか?」と問答する羽目になる。

 

身近では夫がそうだ。彼は基本根明なのだ。彼は自死を考えたことない、という。それでも仕事が忙しければ鬱っぽくなり、口数も減る。しかしその状態でも彼は死にたいとは思わないらしい。

 

私なんて毎日の生活で「死んだら楽かな」と思ってしまうのに。

今が辛いから死にたいのではないのだ。生きるのが面倒なのだ。

 

日々辛くて死を考えている人からすれば、酷い意見なのだろう。

では辛くて死を考えている人は、その辛さが無くなれば考えなくなるのだろうか?

では私のように、辛くないのに死を考えてしまう人は、どうすれば考えなくなるのだろ?

 

ある意味贅沢病なのだろうとは思う。多分死が迫れば「生きたい!」と必死にもなるんだろうと思う。

毎日死にたいわけでもないけれど、生きたいわけでもないのだ。

 

こういう感覚、持っている人はどれくらいいるのだろうか…とふと気になったのであった。

萎えた!!!!

rakusiteikitai.hatenablog.com

 

愚痴です!!!!!

 

 

こんなことを書いてたのですが、今週は萎えた。

はっきりと萎えた。

 

キャラ萌えとしては面白いし、可愛いし、創作しがいがあるだろうと思う。

でも漫画としては本当に萎えた。

 

結局強くなるためには何かしらの特別がないとダメなのか。

その特別もとってつけたようなものじゃないですか?

というか、ずっと倒せなかった敵を突然ぼこすか倒すようになったのは今の幹部が強いからなの?それともこれまでも、幹部と敵の幹部が出くわしてなかったからなの?

その出会うきっかけを作った主人公のおかげなの?

でもその主人公だって人柄とかではなく、ただその血筋だけが狙われてるよね?

 

ねえ、その設定無理がない?人間はそんなものまず口にしないよ。

どういう経緯でそれを口に入れたの?まずそれがおかしくない?

兄ちゃんいたよね?兄もそうなの?個人の資質なの?結局なにか特別なものがあるからみんな強くなれて、特別がない子はそのまま殺されていくのは仕方のないことなの?

 

 

最近あまりにも世界観設定ないがしろで、それ以外のキャラ設定だけで持たせすぎに見えるのは気のせいですか?

 

なんかすごく残念だった。

気持ちで強くなれないからこそ、これまでの積み重ねがあると描いていたこれまではいったい何だったのだろうか

 

作品に対する批評?批判?ってどうなの?って話。

日本語は難しい。

最近特にそう思う。

 

ここ数年、飛翔ジャンルでふらふら遊んでいる私であるが、最近いまいち推し漫画が面白くないという事態に陥っている。

正確には面白いんだけど、めちゃくちゃ面白い!だれにでもおすすめしたい!読んでー!!ってほど面白いと感じられない。

なので、SNSでも前ほど絶賛することができなくなってしまった。

 

面白いと感じる部分もあるのだけど、面白くない…というより「なんで??」って疑問を感じる部分が多すぎて話にのめり込めなくなった、というのが正しい。

特に自分が特に好きなキャラが退場しているせいで、前なら流せた部分が流せないのである。

でも基本的に周囲はその作品が好きな人だから、批判的なものは読みたくないよなあ、とあまりそういう感想は流さないのだけれど、たまに耐え切れずにこぼすこともある。

作品は好きだ、応援したい、いいものになってほしい、だからこそ流せないと感じてしまう部分がある。面白いと思っている人からするとうるさい余計なお世話だってなるだろう。そういう人はミュートして欲しい、ブロックして欲しい。

自分からしたくないなら申告してくれ、こちらからブロック解除するから。

 

とたまに思うのだ。あてつけのように「なんでそんなこと言うの」ってやられると。

好きにやらせてくれよ、と思う反面そりゃ好きなものの悪口のようなツイートみたくないよなっていうのもわかる。だから本当にこちらのことは気にせずに離れてほしい。

 

特に私の周りはどちらかというとマンセーにちかい感想を言う方が多いので、余計に私の発言はよくないのだろう。

でも面白いよね、最高だよね、と言われると同意はできないのだ。

じゃあ二次創作するなよって言われるとそうなのかなあとも思う。

作品に対して愛はある、あるからこそどうしても気になってしまう部分が私にはある。気にならない人が愛がないわけじゃない、考え方、とらえ方、漫画の楽しみ方が違うだけなのだ。

私は特に漫画を描くので、どうしても自分が描くとき「ここの設定はどうだ?ここについては誰かが発言していたな?前はこう言っていたけど、今回のこれはそれに該当しないのか?」と気になってしまうのだ。

 

これは私の二次に対する意地みたいなものだけれど、二次創作だからこそ、公式設定とされるものを無視したくないのだ。

だからこそ、公式の設定がどうなっているのか気になるし、確認したくなる。

解釈は好きでいい、でも与えられている設定を無視したくない、解釈違いではない、調べたらわかる公式の設定をないものとして考えたくない、だからこそ、公式で矛盾が起きたとき「なぜなのか、理由があるのか」を突き詰めてしまう。

しかしその疑問に対して「おかしくない?」と発言すると「なんで批判するの!」と責められる。

これは批判とか批評にあたるものなのか?批判とはなんだ?と日本語が崩壊しそうである。

 

ちょっと疲れたんだって話。

 

ところで、こんな辺鄙なブログにもなんかちょいちょい読んでくださる方がいるようだ。

ありがたいです。